2017年12月8日金曜日

《火の破片、恐怖今も》「うるま川崎米軍機墜落から56年」

《火の破片、恐怖今も》「うるま川崎米軍機墜落から56年」
〈琉球新報2017年12月7日 28面〉


1961年、旧具志川村(現うるま市)の川崎地区に、米軍ジェット機が墜落した事故から7日
で56年になる。死者2人、重軽傷者6人と地元に大きな被害をもたらした事故だ。うるま市
川崎小学校では7日に平和集会を開き、事故の悲劇を繰り返さず、平和への思いを新たにす
る。墜落事故を目のあたりにした多嘉良初子さん(85)=市川崎=は「また戦争が来たと思
った」と、当時の恐怖を振り返る。


【また戦争かと】
事故が起きた61年12月7日、多嘉良さんは5歳の息子と自宅にいた。洗濯をしようとしていた
ところ、突然火の付いた米軍機の破片が自宅の壁を突き破った。「突然のことで、音がした
かは覚えていない。恐怖よりも驚きが大きかった」。火は家財道具などに燃え移り、大きく
なった。「あれこれ考えている暇なんてない」と、バケツで火を消そうと必死だった。
そこへ、近くの住民が慌てた様子で多嘉良さんの家に来た。「旦那さんがけがをしている。
ちょっと来て」と告げられた。事故の時、夫の知富さんは近所のおじの家を訪れていたが、
家の壁を米軍機の破片が突き破った。知富さんはその破片が顔面にあたり全治3か月の傷を
負った。
多嘉良さんは自宅の消火も終わらぬまま、息子を背負い、知富さんが運ばれた病院へと米軍
車両で向かった。
「破片が(夫)顔と鼻に当たって、顔はぱんぱんになっていた」。知富さんが顔を押さえて
いた白いタオルは血で赤く染まり、鼻の骨が見えるほどの傷だった。
その後、自宅戻ると、家財道具の一部は近所の人が運び出してくれていたが、自宅は半焼し
たという。
事故から半世紀がたち、14年には証言集が刊行されたが、遺族や被害者の中には今も多くを
語らない人もいる。
多嘉良さんは「あんな惨状、誰も思い出したくない」と語す。「夫の顔面に当たった破片が
あと数センチずれていたら」「もし子供を預けに、おじやおばの家に向かっていたら」-。
当時の恐怖は、今も多嘉良さんの胸から消えていない。


《惨事「風化させない」》米軍機墜落56年「川崎小で平和集会」
〈琉球新報2017年12月8日 33面〉


1961年に旧具志川村川崎(現うるま市川崎)に米軍機が墜落し、2人が犠牲となった事故か
ら56年を迎えた7日、現場近くの川崎小学校で平和集会が開かれた。事故で一命を取り留め
た金城善孝さん(63)=うるま市=の体験を踏まえ、6年生児童が悲惨な事故の様子を発表
し「金城さんが一生懸命生きて命がつながった。事故を風化させず、生きていこう」と訴
えた。
金城さんから体験を聞いた児童6人は「普通の生活ができるまで2年かかった」「退院後もや
けどの傷が残り、バスで化け物を見るような目で見られ悲しかった」と報告した。6年生は
谷川俊太郎さんの詩「生きる」を大きな声で発表し、下級生に命の大切さを伝えた。最後は
400人以上の児童全員が「平和の鐘」を歌い、米軍機の飛ばない平和な地域を求めた。
金城さんの孫で同小5年の山入端乙音さんが、金城さんに宛てた手紙を読み上げた。「生きて
いてくれてありがとう。そのおかげで私がいる」。仕事の都合で参加できなかった金城さん
に代わり、妻の尚美さん(60)が涙で目を潤ませながら手紙を受け取った。
体験を報告した金城晃志君(11)は「やけどでまぶたが腫れ、目が3か月開かなかったという
話が心に残っている。みんなにも伝わるよう発表できた」と話した。福原君(11)は「聞い
話をいろんな人に知ってほしい。まずは家族に今日のことを話す」と決意を語った。

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